祈りの話

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そのことばはよく耳にするのに、実際よくよく考えてみると、それはまるで私の人生と交わっていない、私はそれをしたことがない、
というものがこの世にはたくさんある。
象の飼育もパラグライダーも東京の通勤ラッシュも、想像はできるけど、でも本当は体験した人にしかその気持ちは分からない。
「祈り」は私にとってずっとそういうものだった。
実際したことはたぶん、なかったのだ。
でも私はタイでそれを経験した。
コムロイという熱気球を一斉に飛ばすイベントでのことだった。
それは日本でいうところのお盆のような仏教の宗教的なイベントなので、まずはお坊さんのお教や歌などが始まった。
ぽかんと座る私の耳に入ってきた抑揚のない歌は心底ここちよく、空には満月が浮かんでいた。
私はふいに、ほんとうになんでもない気持ちで、旅の安全を祈った。それからこれから起きうる人生の様々なことに対して、できるだけタフに生きれるように祈った。それから家族の幸せを、自分の親しい人の幸せを、幸せになりたいと願う全ての人の幸せを祈った。
祈るとは、想うことだった。
それを初めて私は知ったのだった。
祈りはどこまでも無生産でどこまでもからっぽなものだった。
それは何にも誰にも影響を与えることなく、何をも縛らず、ただ私の想いだけがそこに空気よりも透明な存在として浮かんではすぐに消えた。
それはなんと美しいことだろうかと、私は驚いた。ただただ単純に驚いた。
他のことは何もせず、ただ芝生に座って、幸せを願うということのためだけに、時間を割くということは素敵なことだった。
あの散分する煌めきを知れた私はラッキーだ。
そしてだからといって私は特に大きく変わることなく、日々生きている。